丸安毛糸「旅好き女子」がお届けする、アジア最後の桃源郷。ブータンってどんな国? ②

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国王

こんにちは。小柳です。

前回のブログでブータンについて書かせていただきましたがいかがでしょうか。今回もブータンネタになってしまいますが、ブータンからの要請を受け、農業指導員としてブータンのために尽くし、ブータン国民からも愛された一人の日本人がいたのでご紹介したいと思います。

画像はこちらからお借りしました。

 

目次

  • ブータンで最も尊敬された日本人
  • ブータンと西岡氏
  • 最後に

 

ブータンで最も尊敬された日本人

神秘の国ブータンで、28年間にわたって農業技術指導を行った西岡京治さん。日本で彼を知っている人はまだあまりいませんが、ブータンでは最も有名な日本人なのです。

私もブータンに行くまでは全く知らず、ガイドさんの説明を受け西岡さんが眠るお墓に行ったり、たまたま当時のフィルム映像を見る機会があったりとし、西岡さんを知りました。日本人として誇るべき偉大な方でした。

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西岡氏のお墓

 

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ブータンと西岡氏

ブータンは人口100万人の小国で、国民の大半は農業で生計を立てています。でも、国土の大部分は山と谷で、田畑に使える土地は1割程度。農業自給率は極めて低かったそうです。1964年に国際協力事業(JICA)から派遣された西岡さんはこうしたブータンの問題に真っ正面から取り組んで、ブータンの農業指導に自分の人生を捧げたのです。

西岡さんがブータンと関わりを持ち始めるきっかけは、恩師中尾佐助助教授との出会いからはじまります。西岡さんは大阪府立大学農学部の学生で、中尾氏はその助教授でした。ヒマラヤ地方の植物の生態に関心を持っていた中尾氏は、1958年、日本人として初めて、ブータン政府の正式な招きを受けて入国しました。この時、ブータンのドルジ首相から、農業専門家を派遣してほしいとの依頼を受けます。ブータンの農業指導にあたるには、ブータンの人々の生活に溶け込んで、「あの人の言うことなら間違いない」という信頼を受けなければなりません。中尾氏は穏やかで謙虚で、誠実で努力家である西岡さんを推薦することにしました。

ブータン派遣の話を聞いた西岡さんも、58年に西北ネパール学術探検隊に参加して以来ヒマラヤに魅せられ、またそこに住む人々の貧しさに心を痛め、彼らの生活を少しでも豊かにできないものかと考えていたので、この話に心を躍らせました。そして、1964年、JICAから正式に派遣されたのです。

しかし、それまでブータンに対しては隣国のインドのみが援助を行っていたこともあり、インド以外で初の援助国関係者となった西岡さんの試みは、全く受け入れてもらえませんでした。このような困難な状況下で、西岡さんは、まず農家に心を開き対話することから始めたと言います。

赴任した当時のパロは、10アール当たり収量が120キロほどの赤米しかつくれず、毎年のように深刻な冷害に悩まされていました。コメは祭りのときしか食べられず、麦、ソバにトウガラシの粗食で肉体を酷使した農民の多くは40代で死に、子供の早世も目立っていました。そんな姿を目にした西岡さんは「農民たちに何とかコメを十分食べさせたい」と、前例のない「極限の地」でのコメ増産に挑みました。

また、日本から種を持ち込んで大根の栽培方法も教えました。畑の耕し、種のまき方、土のかけ方、一つ一つを丁寧に少年たちに実演して見せたのです。数ヶ月後には、それまでブータンでは見たことのない大きな大根が育っていました。

西岡さんの試験農場の噂が広まり、知事や国会議員が次々に試験農場を訪れるようになりました。彼の2年間の努力を国王が評価し、任期の延長に加えて、広い農場用地も提供されました。また、1980年には、長年のブータン農業への貢献を評価されて、国王から「ダショー」の称号を外国人としては初めて受けました。ダショーとは英語のベストを意味し、「最高に優れた人」という意味である。これは県知事や最高裁判所の判事クラスしかもらえない称号で、ブータンでは最も栄誉あることです。

西岡さんは、「身の丈に合った開発」を常に心掛けていたといいます。「いたずらに莫大な費用をかけるのはよくない。自分たちのやれることは極力自分たちの手で行なう。最小の費用で最大の効果」これが西岡さんの信念です。古い壊れかけたつり橋をつけ変えるにしても、コンクリート製の橋を作るのではなく、耐久性に優れたワイヤーロープ製のつり橋を作りました。費用も安くつくし、地元のつり橋架橋技術も生かされます。これで17本のつり橋が新しく作り変えられました。水田に水路を引くにも、塩化ビニール製のパイプや竹を利用し、合計360本もの水路が完成しました。彼らの手で新たに作られた道路は、全長300キロメートルにも達します。極貧地域は驚くべき変化を遂げ、生活が安定し、子供たちが学ぶ学校や診療所もできました。村人は口々に西岡さんにお礼を述べたそうです。

1992年3月、日本に帰国直前の西岡さんは、敗血症のためブータンにて死去します。日本で突然の訃報を聞いた妻の里子さんは、「葬式はどうなさいますか」との質問に、「パロでお願いします。ブータンの葬式のしかたでお願いします」と答えたそうです。ブータンで28年間、ブータン人になりきって、ブータンのために生き、ブータンのために死んだ夫もきっとそう願っていると彼女は確信したのです。葬儀は、国葬で行われ、彼を慕う5千人に及ぶ人々が、ブータン全土から弔問に集まりました。ブータンでこれまで誰も経験したことのないほど立派で盛大な葬式だったと言います。ブータンは国をあげて、西岡さんに感謝の心を捧げたのです。

西岡さんはブータンの土地に今も眠っています。そこは、パロの人々と収穫の喜びを分かち合った土地です。西岡さんの心の中にブータンが常にあったように、ブータンの人々の記憶の中に今でも西岡京治は生きているのです。

こちらから引用しました。

 

最後に

西岡さんは、ブータンの未来のを拓いた1人であると言っても過言ではありません。

見返りを求めず、日本から遠い他の地で無私の貢献し人々に愛され日本人。西岡さんを私は尊敬し、誇りに思います。

ブータン旅行は、学びが多い旅で本当に行って良かったです。(^○^)